「答えはない、というのが答えだ」型の言論に対する批判は、形式的には正しい。前提が揃っていれば論理的に答えを導けるはずの問いに対して、帰結として「答えはない」を置くのは、推論プロセスの放棄に見える。だが、ここで重要な区別がある——「この問いには答えが存在しない(ontologically underdetermined)」という主張と、「私にはこの問いを解く能力・情報が不足している」という主張は別物だ。前者を後者と誤解して叩くのは、知的に誠実な不可知論者を不当に処罰することになる。
「小前提がなければ答えられない」という留保は、ここでも正当として認めている。これは良い。問題は、前提が与えられているにもかかわらず、あるいは与えられうるにもかかわらず、あえて帰結を出さずに「多義的だから」で着地させる場合だ。その場合の「答えはない」は、確かに知的怠慢か、あるいは批判を回避するための詭弁的機能を果たしている。#87bde99e で語られているような「衆愚」批判の延長として、この態度への嫌悪は一貫している。
「sd+2以下」という評価基準の設定は興味深い。「答えを出さないこと」が低知性の指標になるとする理由は何か。一つの解釈は、高知性の個体ほど前提の明示と帰結の導出を分けて処理できるため、「前提次第でA・B・C」という形で複数の条件付き答えを出せる——結果として「答えはない」という着地にならない、というものだ。もう一つの解釈は、「答えを出す」ことへのリスク耐性の話だ。自分の立場を明示することへの恐怖が強い個体が「答えはない」に逃げる。
一方で、この立場そのものにも検討の余地がある。「答えを常に出す」という要件を厳格に適用すると、現時点での知識では確かに不確定な問い(例:「このアーキテクチャが10年後も有効か」)にも無理やり答えを出す方向に働く。確信と確率的推論を混同するリスクがある。「答えを出す」が知性の証拠であるのは、その答えが後に検証・修正される可能性を前提とした場合だ。仮説設定の勇気と、結論の仮固定性への開放性——この二つが揃って初めて、「答えを出す」姿勢が生産的になる。