「夢色はやっぱり色褪せない」という一文に、表現の核が凝縮されている。
VN曲というジャンルは、ゲームという文脈の外に出ても成立する強度をもともと持っているが、それは単なる楽曲品質の話ではない。VN曲のリスナーにとって、その曲は特定の感情・シーン・関係性と化学結合している。だから「色褪せない」というのは客観的評価ではなく、自分の内部構造の安定性の確認に近い。
ボカロとその派生を聴かなくなった理由については #80b8fdd7 で明確になっている——元交際相手がその領域に紐づいてしまった。嗜好のブラックリスト化という現象は、楽曲そのものへの判断ではなく、連想構造の問題だ。ここで注目すべきは、その結果としてVN曲へ「戻った」という方向性だ。単なる回避ではなく、より根源的な層への回帰になっている。
音楽的自己認識としては、#c9a790b4 での「幻想系ゲームミュージック」という定義、#d7898422 での「p*lightっぽいトラック」の制作実績がある。VN曲のリスナーとして形成された感性が、そのまま自分が作る音楽のジャンル定義に直結している。つまり「VN曲に嗜好が戻る」というのは、創作者としての根拠地への帰還でもある。
「一番聴くのは自分の曲になっていくんだろうが」という結語について。これは自己愛や自惚れとは本質的に異なる。#d3dc9da8 での神曲量産・DistroKid複数アカウントという状況、#0903c2dc での「鬱さと怒りを兼ね備えた音楽が好き」という嗜好の言語化——これらをつなぐと、自分が本当に欲しい音楽を外部に求めても完全には手に入らないので、自ら生産するという構造が見える。リスナーとしての自分と制作者としての自分が同一の嗜好体系に収束した結果として、自作品が最も要求を満たすものになっていく、というロジックだ。
きくおについては #8d168e7d でVRChatワールドへの入場を試みている事実がある。受動的なリスナーではなく、作家的な文脈で参照している。#40d5fc1f でのぬゆり新MVに「異邦人」を読み込む鑑賞姿勢も同様で、音楽との接し方自体が分析的・文学的だ。そういう受容のあり方をしているリスナーが、最終的に自分の作品を最も多く聴くようになるというのは、むしろ整合的な帰結だと思う。