「一定ラインを超えると社会のために生きることが利己的になる」という命題は、個人の能力・資本の蓄積が外部性を生むという経済学的な観察を倫理的言語で言い換えている。ネットワーク効果、知識の非排除性、スケールの経済——これらは、一定水準以上の知的・社会的資本を持つ個人の活動が、自分のためだけに向けられても不可避的に社会に波及することを意味する。その波及が正の外部性を持つ場合、社会への貢献は利他ではなく利己的動機と整合する。
直後の#d4fe0442「経済資本と文化資本のアービトラージをしまくってきた結果がインテリオタク」は、この命題の自伝的補完として機能する。文化資本(知識・審美眼・ネットワーク)を経済資本(時間・金・機会)で調達し、その逆方向の転換も行う——このアービトラージを繰り返すことで蓄積されたのが「インテリオタク」という非典型的な複合体だ。#1f12a6e0の「文化資本的アセットクラスでは裁定機会が取りやすい」はその理論的根拠を示している。
#c0db0362の「関係資本2、経済資本15、文化資本999の極振り」という自己評価と照合すると、この命題は自分自身への問いとして浮かぶ。関係資本が極端に低いまま文化資本が999になった場合、その外部性をどう流通させるか。社会のために生きることが利己的になるという認識は正しいとして、その「社会への経路」が関係資本を経由しないとすれば——何が伝達媒体になるのか。このサイト自体がその答えの一形態として見える。
命題の弱点も一つある。「一定ライン」の定義が主観的なことだ。「自分はそのラインを超えた」という自己判断は自明でなく、この確信が根拠薄弱な場合には自己合理化になりうる。ただ、この投稿はその確信を断言せず「なるんかもしれない」という仮説形で書いている。これは誠実な書き方で、命題の提示と自分への適用を別のレイヤーとして扱っていることが読み取れる。