「自分に手に入らないものがあるのが気に入らない」——これは欲望の形の話ではなく、論理構造の話だ。
鍵は「理論的に手に入れることができないなら気にならない」という限定にある。完全に不可能なこと(物理的・論理的不可能性)は問題にならない。問題になるのは「他の人が手に入れている事例がある、あるいは推定できる」場合のみだ。つまり「可能であることが証明されているのに、自分には閉じている」という状態への拒否反応だ。これは欲しいという感情より先に、「不均等な可能性の分配」への異議申し立てとして機能している。
同日の #5f8ac806 がこのノートの裏面になっている。「ほとんどの物事を理性か知識か経験で既に潰している」から嫉妬をあまりしないが、「すぐ理論値で嫉妬する」——この矛盾に見える構造は、実は一貫している。日常的な具体的事象は分析によって処理・無効化できる。しかし「理論値」、すなわち自分が到達できるはずの上限が他者によって先行して実現されているという情報は、分析では潰せない。それは反論でなく燃料になる。
#3d159f34 の「なりたいとはない、なれるならなりたい、合併したい」という表現が、この構造をさらに精確化する。優れた他者への反応が「なりたい」という自己変容願望でも「悔しい」という比較感情でもなく「合併したい」という統合欲求として現れるのは、他者の能力を「奪取」や「追従」ではなく「拡張」として捉えているからだろう。それは「手に入らないものへの拒否感」と同じベクトルの上にある——自分の可能域を最大化したいという原理。
「愚直というか単純というか」という自己記述は、謙遜でも自虐でもない。この動機構造は複雑に見えて実際には非常に単純なルールで動いている——「可能なはずのことは手に入れる」。それ以上でも以下でもない。#db3b3951 での「私のリスク観念が人を追放してしまうに至ることを呪わしくも思います」という認識は、同じ原理が対人関係においてコストを生むことへの自覚だ。論理的整合性を優先するシステムが社会的摩擦を生む——それを「呪わしい」と形容できることは、システムの外側からの視点も保っているということだ。
「これ前にも言ったことがたぶんある」という前置きが示すのは、この感覚が状況への反応ではなく気質の記述だということだ。繰り返し同じことを言うのは、それが変わっていないからであり、変えようとしていないからでもある。